論文 - 榑沼 範久
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「〈機械〉をモンタージュ(組み立て)しなおす—スピノザ・ホッブズ・ヘーヒ」
榑沼範久
『人文学会雑誌』(武蔵大学人文学会) 55 ( 2 ) 159 - 171 2024年3月 [招待有り]
担当区分:筆頭著者, 最終著者, 責任著者 記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(大学,研究機関紀要) 単著
武蔵大学人文学会『人文学会雑誌』第55巻 第2号(香川檀教授記念号)への招待論文。第1節:「人間の隷属」とその彼岸、第2節:リヴァイアサンのモンタージュ(組み立て)にハサミを入れる、第3節:モンタージュ(組み立て)の方向転換の三節構成。なぜ「われわれは身体のなしうることさえも知らない」(ドゥルーズ/スピノザ)のか。なぜ「われわれは自分たちがいかなる変様をうけいれることができるのかということさえ知らないし、またわれわれの力がどこまで達するかも知らない」(ドゥルーズ/スピノザ)のか。それは身体の変様力(変容をうけいれる力能、変容をおこなう力能)や活動力(運動や静止などの力能)も、精神の変様力や活動力も、「リヴァイアサン」の巨大な「人工的人間」「自動機械に統合され、そこから配分を受ける配置に入ってしまっているからではないか。この局面でこそスピノザをホッブズと並べる必要がある。スピノザ『エチカ』を、ホッブズ『リヴァイアサン、すなわち教会及び市民のコモンウェルスの物質、形態、力』、とりわけその有名な図像へと差し向けることである。ホッブズは、多数の生きた人間をいわば「組立工場」で「組み合わせる」ことで、『リヴァイアサン』の図像のように、巨大な「人工的人間」「自動機械」としての「コモン-ウェルスあるいは国家」を組み立てた。これらの工程は、ダダイストたちが使用した産業用語を使用するなら、「モンタージュ」と表現することもできる。間違えてはいけないのだが、ホッブズは嬉々として「リヴァイアサン」のモンタージュを言祝いでいたのではない。そしてスピノザは、「リヴァイアサン」のモンタージュにハサミを入れて、人間の配置をやりなおそうとしたのではないだろうか。われわれは「リヴァイアサン」のたんなる解体によって内戦に戻るのではなく、内戦と対立する和合を組み立てなおすのでもなく、別のモンタージュをもって臨むのが、ホッブズ自身の不満とスピノザの方向を延長するひとつの方法ではないか。本論はフリーダ・カーロの絵画、サミュエル・バトラー『エレホン』の「機械の書」、そして主にハンナ・ヘーヒのモンタージュ作品を媒介に「リヴァイアサン」のイメージを解体構築する。頭や手も多数の身体が出入り可能で、大地も都市も「リヴァイアサン」も海洋も天空も充満させることが可能ならば、それがどれだけ変容することができるか、どこまで達することができることか。「リヴァイアサン」の巨大身体に入ってきている身体たちが、それぞれの両手に何かを持ちえたら、それぞれの目や鼻や耳や口を備えていたら、あるいはその身体たちが人間身体だけでなく、多種の身体が入りえたとしたら、どこまで達することができるだろうか。
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榑沼範久
『常盤台人間文化論叢』 6 ( 1 ) 145 - 158 2020年3月
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(大学,研究機関紀要) 出版者・発行元:横浜国立大学大学院都市イノベーション学府・研究院 単著
「われわれは海の道—「海上の道」(柳田国男)とはまた別の次元にある海の道—、そして海坂が閉じられた世界に生きている、ということだ。では、いつまでも海の道をとおって通い来る海神の姫の願いを叶えることは、もはやできないのだろうか。海の道が、海坂が閉じられた世界のなかで、海神の姫の願いを聞き届け、その願いを叶えようとするのが、われわれの世界における芸術の使命のひとつではないか。」
「『古事記』では、人間と動物に共通する起源は人間性ではない。それは神代に記録されている人神性なのである。動物が元-人間なのではなく、動物も人間もひとしく元-人神だった。文字通り豊玉姫や山幸彦のような人神だった。その意味で、この国は人間が不在の無人島だった。人間と動物に共通する原初的な条件とは、動物性のことではなく、人間性のことでもなく、人神性なのである。おそらく人間もまた、自らと同じままであり続けた者ではない。」
「大いなる分割によって、人間と動物がともに人神性をいかに失ったのか。この超自然的出来事と、海と陸を行き通うことができたはずの元-人神のありかを、『古事記』は地政的な覇権争いの彼方に物語っている。超自然的な人神たちが渚で夢を混ぜ合わせることができたはずの、社会契約を超えた超自然契約の神話として。人神性からすれば、海坂が閉じられたあとの世界のほうが悪い夢であり、海の道を通い来る願いこそ現実なのだ。われわれは「人新世」以後の地球の新しい法(ノモス)を探るとき、こうした神話に含まれる「貴重な真実」を見る。」 -
「2000年—ボナール、絵画空間の冒険(2000: Bonnard, or A Pictorial Space Odyssey)」
榑沼 範久
『オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展』 2018年9月 [招待有り]
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(その他学術会議資料等) 出版者・発行元:国立新美術館 単著
「ジヴェルニーのモネが逝去し、ボナールとマルトがル・カネに家「ル・ボスケ(茂み)」を購入した翌年の1927年、ラヴクラフトはある短編小説を発表した。春に異様な色の花をつける植物が茂みに出現し、発色する何かがひらひら飛んでいる。風もないのに、壁も窓も揺らめいている。それは私たちの知る自然法則から外れた「宇宙からの色」だった。かたやル・カネを拠点に絵画=生活を弛まず続けるボナールは、戦渦と老化の時間のなか、ひとつの計画ある営みを進めていく。「私はなんとか仕事をしているし、絶対の探求を夢見ています」(マティス宛のボナールの「手紙」1940年)。ボナールが追求する「絶対の探求」とは何だったのか。[…]色が光にならないことを画家は嘆く必要はない。モノリスやスターゲイトから放射される光の運動が、視神経を眩惑、動員する力として侵入するクラーク/キューブリック『2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)』(1968)の手前で、絵を描き続けることが大事なのだ。「運動」や「力」に支配された時間を静止させる絵画空間のかたちで。夢想する猫や興奮の合間に眠る犬のまわりで(「手帖」1944)、静かに揺らめく水、肌、色硝子、植物、蝶の羽のように。「芸術作品:時間の静止」(「手帖」1936)とはそういう意味だろう。色彩は幾重にも織り成された反射光を共有しながら、他者との無限の交渉を示す。自然と文化を区別して動員するような、「力」による地上の制圧の歴史とは異なるかたちで。毎日の散歩で「新種の小さな花々の出現」に目をとめながら、「宇宙の構成」に思いを馳せるボナールは(「手紙」1941年)、宇宙的なものにおいて生起する「果てしなく新しい」反応を—「宇宙からの色」を—、この地上の生命圏、生活圏のただなかで化合しようとしているのだ。神学—物理学—戦争の三位一体(トリニティ)によって動員され、製造される「力」とは異なるかたちで。「目を離すな、色が意味あるものに変容する瞬間から」(「手帖」1938年)。目を離すな、ボナールの絵が人類史の転換点から見て、意味あるものに変容する瞬間から。ボナールは原子力開発と「人新世」の時代の画家なのだから。」
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「20世紀の文化における宇宙的なものの上昇─宇宙機械と人新世の通夜=覚醒のために」
榑沼 範久
常盤台人間文化論叢 4 ( 1 ) 65 - 88 2018年3月 [査読有り]
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(大学,研究機関紀要) 出版者・発行元:横浜国立大学都市イノベーション研究院 単著
本論は20世紀の文化が宇宙的なものと集中的に接触しようとしてきたことを、宇宙的なものの上昇とでも呼べる事態が20世紀の文化に生じたことを、いくつかの文化領域における顕著な言説・表現を共振させることによって、新たに描き出すことを目的とする。それは人類史における宇宙的なものとの接触、そして後述する宇宙機械の創造という問題系の布置=星座を、おもに人文学・文化学の視座から構築する筆者の企図の一環をなすものだ。この企図にとって序論的性格をもつのが本論とも言える。20世紀文化史の展開のなかから宇宙的なものとの接触、宇宙的なものの上昇という新しい問題の布置を、まずは大胆に抽出していくことに、本論は主眼を置いている。科学技術の発展にも応じた進歩主義を基調とするモダンの大きな物語=歴史が失墜すると同時に、分割された小さな物語=歴史と国家主義・経済成長主義・宗教原理主義の各種物語が同時に増殖するポストモダン状況の袋小路のなか、モダンを反省する再帰的ポストモダンをも超える、来るべき人類史のベクトルの可能性を描くこと。モダンへの回帰でも、ポストモダンでの停止でもない、いわばポストモダンの超克を、20世紀の文化における宇宙的なものの上昇、そして宇宙機械の創造という人類史の切線によって切り開くこと。こうした人類史の哲学への新たなアプローチが、宇宙的なものと接触しようと試みた20世紀の文化の点と点のいくつかを共振させながら、本論で計られることになるはずだ。
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「生態学的建築をめざして―建築とギブソンの生態学」
榑沼 範久
『思想』 ( 1045 ) 77 - 107 2011年5月
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 出版者・発行元:岩波書店 単著
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「知覚と生4―建築の生態学(1)」
榑沼範久
『SITE ZERO/ZERO SITE』 ( 3 ) 324 - 353 2010年5月
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
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「問題の真偽と実在の区分ーギブソンとベルクソン」
榑沼 範久
『思想』 ( 1028 ) 171 - 192 2009年12月 [招待有り]
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(その他学術会議資料等) 出版者・発行元:岩波書店 単著
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榑沼範久
『常盤台人間文化論叢』 8 ( 1 ) 131 - 142 2022年3月
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
科学研究費基盤研究(C)「下村寅太郎の「潜在的著作」を集成する」(研究代表者:榑沼範久、課題番号:20K00094、2020-25年)助成による論考:「ブルクハルトは世界史を連続的な発展とは見なしていない。非連続の歴史における危機や岐路に直面して反復される人間の、生きるための闘い—「現在もそうであり、過去においてもつねにそうであった、そして未来においても変わることのないであろう人間の耐え忍び、先を目指し、そして行動する姿」—を焦点に、「歴史を横切る横断面」を「病理学的手法」によって描き出そうとした。そしてこのブルクハルトに熱中したのが、京都帝国大学文学部哲学科における西田幾多郎(1870-1945)や田邊元(1885-1962)の高弟のひとりであり、「京都学派」の一翼をなす哲学者、下村寅太郎(1902-1995)である。」「下村寅太郎という哲学者の個性を描くときに「索められねばならない」「その意欲とその思索との帰趨する中心」は、「分散を必然的に要求する所以のもの」は、一体どこにあるのだろうか。現時点では顕在的著作や既に文字化されている資料からの総合であり、また、結論から言えば単純に響くだろうが、この「中心」は世界史の哲学にあると考える。そして、おそらくは哲学も科学も芸術も、世界史の哲学の思索のなかで最大の意味を持ってくるのではないだろうか。」
その他リンク: http://doi.org/10.18880/00014426
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榑沼範久
『常盤台人間文化論叢』 7 ( 1 ) 237 - 247 2021年3月
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(大学,研究機関紀要) 出版者・発行元:横浜国立大学都市イノベーション研究院 単著
「フーコーとアガンベンを結合させて考えるならば、こう推論されるのではないか。すなわち、「生権力」による管理・調整の延長上でありながら、その地盤には収まらず、「究極には管理不可能で普遍的破壊力を持つ」「生物」や「怪物」を「繁茂」させるような事態。それが「活動性本位のパラダイムの惑星的な支配」をその延長上に、あるいは「生権力」をその過剰な加速化の果てに、「別の地盤に転移」するのだと。そしておそらくは、管理・調整に回収されない「製造」の秘密がここに関与している。[…]ウイルスの世界同時多発的拡散を契機に、「活動性本位のパラダイムの惑星的な支配」が減速すると同時に、あたかもそれが「別の地盤に転移」する幕間のごとく見えてしまった。「究極には管理不可能で普遍的破壊力を持つ」「生物」や「怪物」の「繁茂」が、いかに「活動性本位のパラダイムの惑星的な支配」を左右するのか、そして、それが「技術的にも政治的にも人間にとって可能になる時」に、何が起こるのかということを。」
「『鳥のカタログ』(1956-58)など、鳥の鳴き声に傾注し続けたメシアンは、1962年に来日したときには信州の軽井沢で鳥の鳴き声を採譜したように、オペラ『アッシジの聖フランチェスコ』の作曲時にも、アッシジのみならず、ニューカレドニアにも足を運んで、鳥たちの鳴き声を採譜した。そして第二幕の第6景「鳥たちへの説教」に限らず、オペラ『アッシジの聖フランチェスコ』には、採譜した鳥たちの鳴き声をモチーフにした音が散りばめられている。このオペラは、聖フランチェスコの歩みの物語の至るところで、彼の生涯の物語と同時に進行するパラレルワールドのように、人間と鳥たちが交錯した活動性を示していくのだ。「活動性本位のパラダイムの惑星的な支配」でも、活動性のアナザー・パラダイムでも、もはや「歴史は単に人間の歴史ではない」。 -
「知覚と生3ー崩壊する過程のなかで」
榑沼範久
『SITE ZERO/ZERO SITE』 vol. 2 110 - 132 2008年6月
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
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「知覚教育の必要性」
榑沼範久
『SITE ZERO/ZERO SITE』 1 448 - 471 2007年6月
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
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「知覚情報美学にむけて」
榑沼範久
『SITE ZERO/ZERO SITE』 vol. 0 ( 創刊 ) 404 - 420 2006年7月
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
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「快感原則の彼岸ー感覚/知覚の戦場」
『戦争と芸術論』 2006年3月
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
平成16ー平成17年度科学研究費補助金・基盤研究C研究成果報告書(研究課題番号16520075;研究代表者:大里俊晴)
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榑沼 範久
立教アメリカンスタディーズ 28 25 - 41 2006年3月
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 出版者・発行元:立教大学 単著
その他リンク: http://doi.org/10.14992/00002002
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「視覚の身体文化学(4)-運動情報装置」
『10+1』INAX出版 no. 39 33 - 35 2005年
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
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「視覚の身体文化学(3)-ギブソンを再軍事化する」
『10+1』INAX出版 no. 38 21 - 23 2005年
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
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「視覚の身体文化学(1)-色の生態学?」
『10+1』INAX出版 no.36 2004年
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
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「視覚の身体文化学(2)-色のショック体験」
『10+1』INAX出版 no.37 33 - 35 2004年
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
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「フライト・シミュレーターのヴィジョン」
石塚久郎・鈴木晃仁編『身体医文化論-感覚と欲望』、慶應義塾大学出版会 407 - 437 2002年
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(その他学術会議資料等) 単著
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「シミュレーションとリアリティ」
『SAP-Saison Art Program Journal』、セゾン・アートプログラム 9 114 - 125 2002年
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
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「<男の眼差し>再考-視の欲動、対象a、欲望/幻想」
『言語態』、東京大学大学院言語情報科学 2 56 - 64 2001年 [査読有り]
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
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「音響による人体の爆撃-第一次世界大戦、フロイト、ポピュラー・ミュージック」
『東京大学超域文化科学紀要』 6 58 - 78 2001年 [査読有り]
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
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「声の暴力、耳の享楽」
『Language, Information, Text 東京大学大学院言語情報科学紀要』 7 53 - 69 2000年 [査読有り]
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
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「マルセル・デュシャン『階段を降りる裸体[No. 2]』における<運動の問題>」
『日仏美術学会会報』 13 23 - 38 1993年 [査読有り]
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著