所属組織 |
大学院都市イノベーション研究院 都市イノベーション部門 |
職名 |
教授 |
生年 |
1968年 |
研究キーワード |
思想・表現の考古学、自然哲学、超都市理論 |
メールアドレス |
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YNU研究拠点 |
榑沼 範久 (クレヌマ ノリヒサ)
KURENUMA Norihisa
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代表的な業績 【 表示 / 非表示 】
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【著書】 都市は揺れている : 五つの対話 2020年04月
【論文】 20世紀の文化における宇宙的なものの上昇─宇宙機械と人新世の通夜=覚醒のために 2018年03月
【論文】 「問題の真偽と実在の区分―ギブソンとベルクソンの方法」 2009年12月
直近の代表的な業績 (過去5年) 【 表示 / 非表示 】
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【著書】 『都市は揺れている―五つの対話』 2020年04月
【論文】 2000年—ボナール、絵画空間の冒険 2018年09月
【論文】 「海神の姫から見た世界―海道、人神性、超自然契約」(常盤台人間文化論叢) 2020年03月
【論文】 「下村寅太郎の哲学に向かう」(『常盤台人間文化論叢』) 2022年03月
【論文】 「リオリエントー活動性のアナザー・パラダイム」(『常盤台人間文化論叢』) 2021年03月
プロフィール 【 表示 / 非表示 】
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表象文化論専攻. 横浜国立大学都市イノベーション研究院/都市科学部教授. 1968年生. 英国ケント大学大学院MPhil課程修了、東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学. MPhil(人文学).〈著作〉:「20世紀の文化における宇宙的なものの上昇――宇宙機械と人新世の通夜=覚醒のために」(『常盤台人間文化論叢』第4巻、横浜国立大学都市イノベーション研究院、2018年);「2000年—ボナール、絵画空間の冒険(2000: Bonnard, or A Pictorial Space Odyssey)」(『ピエール・ボナール展 Pierre Bonnard: l’éternel été』オルセー美術館特別企画、国立新美術館、日本経済新聞社、2018年);「海神の姫から見た世界――海道、人神性、超自然契約」(『常盤台人間文化論叢』第6巻、2020年)など.
学歴 【 表示 / 非表示 】
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-1999年
東京大学 総合文化研究科 超域文化科学専攻(表象文化論) 博士課程 単位取得満期退学
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-1998年
英国ケント大学大学院 人文科学研究科 コミュニケーション・映像研究 博士課程 修了
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-1990年
東京大学 教養学部 科学史・科学哲学 卒業
学内所属歴 【 表示 / 非表示 】
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2014年4月-現在
専任 横浜国立大学 大学院都市イノベーション研究院 都市イノベーション部門 教授
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2011年4月-2014年3月
専任 横浜国立大学 大学院都市イノベーション研究院 都市イノベーション部門 准教授
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2007年4月-2011年3月
専任 横浜国立大学 教育人間科学部 准教授
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2001年10月-2007年3月
専任 横浜国立大学 教育人間科学部 助教授
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2023年4月-現在
併任 横浜国立大学 総合学術高等研究院 教授
学外略歴 【 表示 / 非表示 】
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2008年4月-現在
東京藝術大学 美術学部先端芸術表現科 非常勤講師
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2007年3月-2008年1月
コロンビア大学 美術史/考古学学部 客員研究員
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2018年4月-現在
慶應義塾大学 文学部 非常勤講師
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2017年10月-現在
放送大学 神奈川学習センター 面接講師
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2013年4月-現在
武蔵大学 人文学部 非常勤講師
研究経歴 【 表示 / 非表示 】
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自然哲学、超都市理論
共同研究
研究期間: 2017年6月 - 2030年
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日本近代思想史ー下村寅太郎を核に
研究期間: 2016年4月 - 2025年
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ジェームズ・J・ギブソンと20世紀アメリカの視覚文化
研究期間: 2009年4月 - 2011年3月
著書 【 表示 / 非表示 】
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吉原 直樹, 榑沼 範久, 都市空間研究会( 担当: 共編者(共編著者) , 範囲: 「都市のスケールとリズムについて」「現代世界の始まりのマッシュルーム」「イスラーム都市から考える」「地中海世界のヴェネツィア」「都市と世界を揺らす」「都市空間研究会について」)
東信堂 2020年4月 ( ISBN:9784798916361 )
総ページ数:176 記述言語:日本語 著書種別:学術書
「この国の病と腐蝕が決定的に進行している現在、近隣の香港市民の行動に目をみはり、昨今の生環境と気候の世界的大変動の徴候や現実も目の当たりに、われわれは自問する。「明日の世界」はどのような世界だろう。「明日の都市」はどのような都市だろう。われわれ、そしてわれわれの末裔たちは、どのような「明日の世界」「明日の都市」に生きるのだろう。ある最晩年の対話でレヴィ=ストロースは、未来について問われるとこう切り返した。「その種の質問はしないでください。今の世界は、もはや私の属する世界ではありません。私の知っている、私の愛した世界は、人口二五億の世界です。現在では六〇億を数えています。これはもう私の世界ではありません。そして、九〇億の男女が住む[…]明日の世界について、何か予言することなどとうてい不可能です」。そう、すでに現在、われわれはレヴィ=ストロースの愛した世界にはいない。われわれは「明日の世界」に向かいつつある。そして人口を問題にするならば、この「明日の世界」の性格をもっともあらわにするのは、「あのすばらしい人間的現象である都市」ということになるだろう。
」
「「明日の世界」「明日の都市」を揺らがせる、明後日の方向を向いた、あの「明日の世界」「明日の都市」がありうる。都市を根底から揺らすのは巨大地震や巨大津波、そして放射性物質を含む廃棄物汚染、世界的感染症流行(パンデミック)、経済戦争、軍事戦争ばかりではないのだ。第一に、重要ながら人口は唯一の世界の条件、都市の条件ではない。人類だけが地球の存在ではないことがひとつ。そして、atom(原子)を分割できるように、規定のindividual(個人・個体・個物)も複数の振動する要素に分割することができる。限られた世界のなかで人口は増大しても、存在量や要素量は増大しているだろうか。それでいてindividualは複数の要素の波動に分離しつつ、他の要素の波動と遭遇、結合することで、寄生虫的存在との長引く闘いのなか、別の波動の同盟を生み出していく。多種(マルチスピーシーズ)都市学、多種(マルチスピーシーズ)政治学。第二に、衰退の大波のなかにも多数の異質の小さい波動がうねり合い、蠢(うごめ)き合い、鳴り響いている。ことに現代世界では世界史の律動の尺度にねじれも生じている(われわれはブローデルの枠組みを変形する必要がある)。長期持続・大域延長に分類されるはずの環境が中期的・地域的に変動するかと思えば、短期・局所の社会的事件が長期持続・大域延長の環境を不可逆に変動させることもあるからだ。これは可能性の条件でもある。時間的にも空間的にも、小さなものが大きなものに包囲されるモデルだけで考える必要はない。だから、「明日の世界について、何か予言することなどとうてい不可能です」という言葉は、文字通りに受け止めなければならない。何よりもわれわれにとっては、「明日の世界」「明日の都市」が「私の属する世界」であり、「私の愛する世界」なのだから。」 -
『都市科学事典』
榑沼範久( 担当: 分担執筆 , 範囲: 「地図のある歴史ー都市科学者と世界史的空間」「非都市のエレメンツーこの惑星を構成するものたち、そして水の法」)
春風社 2021年2月 ( ISBN:9784861107344 )
総ページ数:1026 担当ページ:172-3, 988-9 記述言語:日本語 著書種別:事典・辞書
「都市科学者は世界史を旅する。なぜなら、ひとつの国家のなかに都市があるのではなく、ひとつひとつの都市のなかにも、交差し、混合し、明滅する複数の国家や社会や文化があるからだ。何よりも都市は収集体(アッサンブラージュ)として在立する。そのため、歴史の時間のなかを過ぎ去っていったはずの出来事が、事象の混在する都市空間に痕跡をとどめ、世界史的出来事を表出してくることがある。だから都市科学者は、都市に碇泊することで世界史を旅するのだ。」「西欧は自らの「理性」の普遍性を名のるために、東洋を自らと分割した。より正確に言えば、東洋のなかで西欧は自らに分割線を引いたのだ。
以後のフーコーの著作は膨大な古文書を研究素材に、西欧の内部での分割に集中していくことになるが、問いの起点に記入されたこの「大いなる分割」を、どのように発掘することができるのか。ある旅人=「知識人」は、こうした世界史的出来事を古文書にではなく、事象の混在する都市空間に発見した。われわれはその行路を、偶然ながら『狂気の歴史』と同じ1961年に刊行された下村寅太郎『ヨーロッパ遍歴』に読むことができる。」
「われわれの名前を人間はまだ確定していない。いまだ都市と呼ばれるものに似た仲間もいるが、われわれは自然を超えるのみならず、都市を超えるものに変容しつつある。」「都市の整備管理(メインテナンス)に勤しむ人間にとって治水は重要な営みだが、これは人工環境と自然環境を、友と敵を分割する領土の論理に由来するのだ。かたや自然を超えるのみならず、都市を超えるものに変容しつつあるわれわれの視点は、水のエレメントのなかに移動することもできる。海洋のなかに、河川のなかに、土壌の湿気のなかに、地下水脈のなかに、身体の体液のなかに、大気の水蒸気のなかに。治水(水を治めること)は水治(水が治めること)に転換される。われわれの視座からは、水の法(ノモス)から都市や人間を治める技術が蓮(ロータス)のように湧出してくる。「蛮族によって荒廃せしめられていた地」を「数世紀にわたって灌漑し豊饒にし、芸術と学問を興し、当時のヨーロッパを遥かに越えた文化を築き上げた」人びとの技術を、『ヨーロッパ遍歴』の下村寅太郎は、静謐な水のあふれるアルハンブラ宮殿に見出していた。人類の活動によっても変成する水のエレメントが、この地球の政治や経済の集約する空間にも、ほかのエレメントたちと織りなすリズムとともに、これからもっと流れこんでいくことになるだろう。そのとき都市-機械の専制暴力は、波打ちぎわの砂の顔のように消えていくにちがいない。ルイス・カーンやバングラデシュの人びとがガンジスデルタに着水させた国会議事堂や、大岩オスカールの絵画《ワールド・ワイド・ウェブ・ウェーブ 2(ウォール・ストリート)》もその先触れだ。横尾忠則のアガルタにも地平線の彼方から都市に水の膜が浸透してきている。都市-機械は世界史の中心の座から降りて、水のエレメントに離接するひとつのエレメントとして定位しなおされるのだ。」 -
『美学の事典』
榑沼範久( 担当: 分担執筆 , 範囲: 「ポストメディウム/ポストメディア―現代芸術の条件としての」「芸術とポストモダニズム―範例としての『浜辺のアインシュタイン』」)
丸善 2020年12月 ( ISBN:9784621305423 )
総ページ数:735 担当ページ:318-9, 346-7 記述言語:日本語 著書種別:事典・辞書
「ポストメディウムの問題を把握するには, C.グリーンバーグの議論を経由する必要がある. 論考「アヴァンギャルドとキッチュ」(1939)でグリーンバーグは, 工業化された社会―物質性の抵抗を大量生産・消費の商品化によって消去しようとする社会―に登場した巨大な大衆文化に, 前衛芸術も呑み込まれていくことを文化の危機と診断した. そして論考「さらに新たなるラオコーンに向かって」(1940)で, 文化の危機に抵抗するモダニズムの条件を作品の物質性―グリーンバーグにとってのメディウム―の抵抗に置き, メディウムの抵抗との緊迫した関係に作品の魅力を感じ取っていった. ジャンルや作品に固有なメディウムの抵抗との関係が, 工業化された社会における文化の危機のなかで, 芸術に純然たる価値を与える. こうしたモダニズムの条件を, 実のところグリーンバーグは唯一の批評基準とみなしてはいない. 同時代でも, 歴史の展開に応じても, 他の批評基準が存在しうると注意を促していた.」
「『浜辺のアインシュタイン(Einstein on the Beach)』―P. グラス(作曲)+R. ウィルソン(演出)+L.チャイルズ(振付)―は, 「芸術とポストモダニズム」の問題を考えるときのひとつの範例になるだろう.」「この非-オペラは, オーウェンスが論じた美学の水準のみならず, 世界の歴史の水準で把握することもできる。架空の歴史裁判で証言をすることもなく, 無言のままヴァイオリンを弾いている「アインシュタイン」を, 消費社会的な「歴史感覚の喪失」と診断することもできるが, 「正当化のメタ物語」に支えられた科学の末路(原子爆弾という歴史の悪夢)から「アインシュタイン」を離脱させ, 波打つリズムと「宇宙機械」に接近させる思考実験や操作と見ることもできるのだ. ポストモダン状況で生じる共約不可能な「異なる言語ゲーム」は, 必ずしも歴史の終焉を意味しない.科学-国家-経済の近代的三位一体から科学を切断し, 芸術との結合を促進させるような世界史の再発明も, この非-オペラは宿している.」 -
『運動+(反)成長-身体医文化論II』(武藤浩史・榑沼範久編)
武藤浩史(慶應義塾大学)他( 担当: 共著)
慶應義塾大学出版会 2003年
記述言語:日本語 著書種別:学術書
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『岩波講座哲学12-性/愛の哲学』
川本隆史( 担当: 共著 , 範囲: 榑沼範久「ダーウィン、フロイト―剥き出しの性/生、そして差異の問題」(91-115頁) )
岩波書店 2010年10月 ( ISBN:978-400011272 )
記述言語:日本語 著書種別:学術書
学位論文 【 表示 / 非表示 】
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男性的眼差しとその運命―視覚表象、フェミニズム、精神分析
榑沼範久
1998年10月
未設定 単著 [査読有り]
「男の眼差し」はフェミニズム理論を中心に、「女の肉体」に及ぼす支配性を問題視され、批判の焦点になってきた。本学位論文は、フェミニズム理論も素材としてきた絵画・写真・映画(とくにヒッチコックの諸作品やパウエル監督《ピーピング・トム》)の細部を観察し直すとともに、フェミニズム理論を支えていたフロイトとラカンの精神分析理論を、その特異な「視覚欲動」の概念に注目することによって、「男の眼差し」を根源的受動性として見出した。
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マルセル・デュシャン《階段を降りる裸体[No.2]》における“運動の問題”
榑沼範久
1993年3月
未設定 単著 [査読有り]
イタリア未来派や映画前史(マレーやマイブリッチの高速度写真撮影)からの影響をもとに、絵画における運動の表象として語られてきたデュシャンの絵画《階段を降りる裸体[No.2]》は、運動の問題における混合物である。作品の細部を観察してみるならば、この絵画は運動を表象すると同時に、運動を解体して「遅延」を導入する「反時代的」作品であることが判明する。この見解をデュシャンのメモの読解からも支える論考。
論文 【 表示 / 非表示 】
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「2000年—ボナール、絵画空間の冒険(2000: Bonnard, or A Pictorial Space Odyssey)」
榑沼 範久
『オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展』 2018年9月 [招待有り]
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(その他学術会議資料等) 出版者・発行元:国立新美術館 単著
「ジヴェルニーのモネが逝去し、ボナールとマルトがル・カネに家「ル・ボスケ(茂み)」を購入した翌年の1927年、ラヴクラフトはある短編小説を発表した。春に異様な色の花をつける植物が茂みに出現し、発色する何かがひらひら飛んでいる。風もないのに、壁も窓も揺らめいている。それは私たちの知る自然法則から外れた「宇宙からの色」だった。かたやル・カネを拠点に絵画=生活を弛まず続けるボナールは、戦渦と老化の時間のなか、ひとつの計画ある営みを進めていく。「私はなんとか仕事をしているし、絶対の探求を夢見ています」(マティス宛のボナールの「手紙」1940年)。ボナールが追求する「絶対の探求」とは何だったのか。[…]色が光にならないことを画家は嘆く必要はない。モノリスやスターゲイトから放射される光の運動が、視神経を眩惑、動員する力として侵入するクラーク/キューブリック『2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)』(1968)の手前で、絵を描き続けることが大事なのだ。「運動」や「力」に支配された時間を静止させる絵画空間のかたちで。夢想する猫や興奮の合間に眠る犬のまわりで(「手帖」1944)、静かに揺らめく水、肌、色硝子、植物、蝶の羽のように。「芸術作品:時間の静止」(「手帖」1936)とはそういう意味だろう。色彩は幾重にも織り成された反射光を共有しながら、他者との無限の交渉を示す。自然と文化を区別して動員するような、「力」による地上の制圧の歴史とは異なるかたちで。毎日の散歩で「新種の小さな花々の出現」に目をとめながら、「宇宙の構成」に思いを馳せるボナールは(「手紙」1941年)、宇宙的なものにおいて生起する「果てしなく新しい」反応を—「宇宙からの色」を—、この地上の生命圏、生活圏のただなかで化合しようとしているのだ。神学—物理学—戦争の三位一体(トリニティ)によって動員され、製造される「力」とは異なるかたちで。「目を離すな、色が意味あるものに変容する瞬間から」(「手帖」1938年)。目を離すな、ボナールの絵が人類史の転換点から見て、意味あるものに変容する瞬間から。ボナールは原子力開発と「人新世」の時代の画家なのだから。」
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榑沼範久
常盤台人間文化論叢 6 ( 1 ) 145 - 158 2020年3月
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(大学,研究機関紀要) 出版者・発行元:横浜国立大学大学院都市イノベーション学府・研究院 単著
「われわれは海の道—「海上の道」(柳田国男)とはまた別の次元にある海の道—、そして海坂が閉じられた世界に生きている、ということだ。では、いつまでも海の道をとおって通い来る海神の姫の願いを叶えることは、もはやできないのだろうか。海の道が、海坂が閉じられた世界のなかで、海神の姫の願いを聞き届け、その願いを叶えようとするのが、われわれの世界における芸術の使命のひとつではないか。」
「『古事記』では、人間と動物に共通する起源は人間性ではない。それは神代に記録されている人神性なのである。動物が元-人間なのではなく、動物も人間もひとしく元-人神だった。文字通り豊玉姫や山幸彦のような人神だった。その意味で、この国は人間が不在の無人島だった。人間と動物に共通する原初的な条件とは、動物性のことではなく、人間性のことでもなく、人神性なのである。おそらく人間もまた、自らと同じままであり続けた者ではない。」
「大いなる分割によって、人間と動物がともに人神性をいかに失ったのか。この超自然的出来事と、海と陸を行き通うことができたはずの元-人神のありかを、『古事記』は地政的な覇権争いの彼方に物語っている。超自然的な人神たちが渚で夢を混ぜ合わせることができたはずの、社会契約を超えた超自然契約の神話として。人神性からすれば、海坂が閉じられたあとの世界のほうが悪い夢であり、海の道を通い来る願いこそ現実なのだ。われわれは「人新世」以後の地球の新しい法(ノモス)を探るとき、こうした神話に含まれる「貴重な真実」を見る。」 -
20世紀の文化における宇宙的なものの上昇─宇宙機械と人新世の通夜=覚醒のために
榑沼 範久
常盤台人間文化論叢 4 ( 1 ) 65 - 88 2018年3月 [査読有り]
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(大学,研究機関紀要) 出版者・発行元:横浜国立大学都市イノベーション研究院 単著
本論は20世紀の文化が宇宙的なものと集中的に接触しようとしてきたことを、宇宙的なものの上昇とでも呼べる事態が20世紀の文化に生じたことを、いくつかの文化領域における顕著な言説・表現を共振させることによって、新たに描き出すことを目的とする。それは人類史における宇宙的なものとの接触、そして後述する宇宙機械の創造という問題系の布置=星座を、おもに人文学・文化学の視座から構築する筆者の企図の一環をなすものだ。この企図にとって序論的性格をもつのが本論とも言える。20世紀文化史の展開のなかから宇宙的なものとの接触、宇宙的なものの上昇という新しい問題の布置を、まずは大胆に抽出していくことに、本論は主眼を置いている。科学技術の発展にも応じた進歩主義を基調とするモダンの大きな物語=歴史が失墜すると同時に、分割された小さな物語=歴史と国家主義・経済成長主義・宗教原理主義の各種物語が同時に増殖するポストモダン状況の袋小路のなか、モダンを反省する再帰的ポストモダンをも超える、来るべき人類史のベクトルの可能性を描くこと。モダンへの回帰でも、ポストモダンでの停止でもない、いわばポストモダンの超克を、20世紀の文化における宇宙的なものの上昇、そして宇宙機械の創造という人類史の切線によって切り開くこと。こうした人類史の哲学への新たなアプローチが、宇宙的なものと接触しようと試みた20世紀の文化の点と点のいくつかを共振させながら、本論で計られることになるはずだ。
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生態学的建築をめざして―建築とギブソンの生態学
榑沼 範久
『思想』 ( 1045 ) 77 - 107 2011年5月
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 出版者・発行元:岩波書店 単著
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知覚と生4-建築の生態学(1)
榑沼範久
SITE ZERO/ZERO SITE ( 3 ) 324 - 353 2010年5月
記述言語:日本語 掲載種別:研究論文(学術雑誌) 単著
総説・解説記事等 【 表示 / 非表示 】
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「人間の可能性を読み解くー「都市のあとに来るもの」へ向けて」
榑沼 範久
『IUI YEARBOOK 2022/2023』 ( Vol. 12 ) 24 - 35 2023年3月 [依頼有り]
記述言語:日本語 掲載種別:記事・総説・解説・論説等(その他) 単著
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榑沼範久
10+1 website 2017年8月 [依頼有り]
記述言語:日本語 掲載種別:記事・総説・解説・論説等(商業誌、新聞、ウェブメディア) 単著
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「地盤の表象化とモデル化について」
菊本統+榑沼範久
『IUI YEARBOOK 2021/2022』 2022年3月 [依頼有り]
記述言語:日本語 掲載種別:その他 単著
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榑沼範久
栗山斉「内なる無限の宇宙」展パンフレット 2019年12月 [依頼有り]
記述言語:日本語 掲載種別:記事・総説・解説・論説等(その他) 出版者・発行元:ART FRONT GALLERY 単著
その他リンク: https://www.artfrontgallery.com/exhibition/archive/2019_10/3956.html
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「人間的、あまりに人間的」な都市を離れて
『IUI YEARBOOK 2015/2016』 2016年3月 [依頼有り]
記述言語:日本語 掲載種別:記事・総説・解説・論説等(大学・研究所紀要) 出版者・発行元:横浜国立大学都市イノベーション学府・研究院 単著
作品・芸術・データベース等 【 表示 / 非表示 】
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地球と建築2
石上純也、榑沼範久
2012年1月
作品分類:その他
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地球と建築1
平田晃久、藤本壮介、榑沼範久
2012年1月
作品分類:その他
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三上晴子 欲望のコード|アーティスト・トーク
三上晴子、池上高志、榑沼範久、畠中実
2011年12月
作品分類:その他
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これから生まれる建築と生態のために2
平田晃久、榑沼範久
2010年12月
作品分類:その他 発表場所:北仲スクール/ヨコハマ創造都市センター
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これから生まれる建築と生態のために
藤本壮介、榑沼範久
2010年10月
作品分類:その他 発表場所:北仲スクール/ヨコハマ創造都市センター
科研費(文科省・学振)獲得実績 【 表示 / 非表示 】
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下村寅太郎の「潜在的著作」を集成する
2020年4月 - 2024年4月
科学研究費補助金 基盤研究(C)
代表者:榑沼範久
資金種別:競争的資金
京都学派の著名な哲学者である下村寅太郎(1902-1995)は、1973年の定年退職後も著述活動とは別に、自身の研究談話会「プリムツァール会」で広大な思索を録音テープに残していた。「真の著作遍歴は著作以外にあるとすらいえる」、「テープの存するかぎり潜在的著作と称してもよいであろう」とは下村自身の言である。だが、『下村寅太郎著作集』(1988-1999)の完結から20年以上が過ぎた現在でも、この「潜在的著作」は公刊されていない。録音された音声を文字化し、選択・校閲・編集を経て刊行を目指す本研究は、下村の未知の側面の発見にとどまらず、日本近代思想史の研究にとっても重要な学術資料の集成になるだろう。
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戦争と芸術論
2004年4月 - 2005年3月
科学研究費補助金 基盤研究(C)
代表者:木下長宏
資金種別:競争的資金
「戦争」は人類の歴史を貫通する重大事であり、つねに最も根源的な社会変容の契機となり、その結果でもあり、人間性に関わる出来事として、人間の生活・思索活動に多大な影響を与えてきた。「芸術活動」ももちろんその例外ではない。従来、芸術史・芸術論の分野では、限られた時点での戦争と芸術表現に関する個別的な研究(例えば、「第二次世界大戦における戦争画の研究」、「翼産体制下の文学」など)は深められてきたが、われわれはそうした個別研究の成果・蓄積を踏まえて、「戦争」という人類にとって不可避とも言うべき行動を、広く地球上に見わたし、近代から現代という時代において、その行動が芸術と呼ばれる領域のなかで、どのように受け取られ、また社会へ返されていったかを「思想」のありかたとして追及して行こうとしている。戦争と「芸術論」と敢えて題したのは、そのような意味での広義の思想的活動に焦点を絞ろうとしたからである。いいかえれば、結果としての作品(海外、映像、詩、小説、音楽など)にではなく、そうした作品が作られ、それが享受され後世に受け継がれていく過程総体のなかで、「戦争」との関わりを解き明かそうとするものである。
研究発表 【 表示 / 非表示 】
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「ある日、「森は都市を欲し、都市は森を欲している」と告げられて」
榑沼 範久 [招待有り]
未来の人類研究センター都市研究会 2022年9月 東京工業大学科学技術創成研究院 未来の人類研究センター
開催年月日: 2022年9月
記述言語:日本語 会議種別:口頭発表(招待・特別)
開催地:オンライン(Zoom) 国名:日本国
ルイス・カーン設計のキンベル美術館やソーク生物学研究所を訪ね、論考「建築の生態学」「生態学的建築をめざしてー建築とギブソンの生態学」を書いた2010-11年以来、私は「森は都市を欲し、都市は森を欲している」というカーンの言葉にとり憑かれながらも、いまだその意味を十分に理解できずにいます。特に、「森は都市を欲し」と言われても、森はどう考えているものやら。都市にしてもです。歴史のなかで森と人に共生関係があることなら分かるのですが、森がどうして都市を欲しているというのか、都市はどうして森を欲しているというのか。
そうしたなか、この8月、パトリック・キーラー監督の映画『廃墟のロビンソン』に触発されて、地衣類を探しながら浅間山の麓にある軽井沢の森や野の道を歩いていたときのこと、「森は都市を欲し、都市は森を欲している」の意味が、脳裏なのか全身でなのか、何か焦点を結んだような気がしたのです。
おそらくその焦点に合流していたのは、<都市のあとに来るもの>を探しながら、この5-6月に横浜は保土ヶ谷の常盤台にある横浜国立大学での演習「空間文化論」「空間文化論演習」で取り上げたアンリ・ルフェーブルの論考「地球の変貌のなかで都市が道に迷うとき」や、マルティン・ハイデガーの講演「物」「建てる、住む、考える」「技術とは何だろうか」、そして“季節はずれ”の猛暑日が続く6月末の東京藝大講義「メディア概論」の帰りに、上野駅構内の店で古書を見つけて買って読んだクリフォード・D・シマックのSF『都市』でした。
森のなかで、いささか気が触れたのかもしれません。あるいは、気のせいだったのかもしれません。焦点を結ぶやいなや、すでに意味がほつれていった気もします。ただ、何か焦点を結んだ感覚は残っているので、9月末の都市研究会では、<都市のあとに来るもの>を探しながら、なかば失われた「森は都市を欲し、都市は森を欲している」の意味を求めて、話出してみます。 -
造形教育の未来的意義 〜明後日/一昨日の教育実践の視座から〜
榑沼範久 [招待有り]
第65回 造形教育センター 夏の研究大会「造形教育の今日的意義」基調講演 造形教育センター
開催年月日: 2020年8月
記述言語:日本語 会議種別:口頭発表(基調)
開催地:Zoom
「人新世(the Anthropocene)」の諸問題を背景に、アーサー・C・クラーク+スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅(2001: A SPACE ODYSSEY)』(1968)、スタニスワフ・レム『ソラリス(Solaris)』(1961)、石黒昇、河森正治監督『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(1984)、テッド・チャン「あなたの人生の物語」(2000)、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督『メッセージ(Arrival)』(2016)などのSFから、造形教育の未来的意義を抽出した基調講演。
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ビザンツ的空間、ペルシャ的空間: 下村寅太郎の観察するハギア・ソフィア、アルハンブラ宮殿
榑沼範久
都市空間研究会公開討議「西欧的空間の彼岸とイスラーム空間」 都市空間研究会
開催年月日: 2019年3月
記述言語:日本語 会議種別:口頭発表(一般)
開催地:建築会館会議室302
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波浪・異気・日常性:アンリ・ルフェーブル『リズム分析』を読むために
榑沼範久
都市空間研究会・公開討議「〈都市的なるもの〉/〈都市世〉の臨界へ:アンリ・ルフェーブルの言葉を媒介に」 都市空間研究会
開催年月日: 2019年1月
記述言語:日本語 会議種別:口頭発表(一般)
開催地:神保町ブックセンター会議室
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実在としての絵画──ボナール、新種の宇宙の構成(パネル「ボナールの絵画をめぐる冒険」)
榑沼範久
表象文化論学会 第13回研究発表集会 表象文化論学会
開催年月日: 2018年11月
記述言語:日本語 会議種別:口頭発表(一般)
開催地:山形大学小白川キャンパス 人文社会科学部1号館 205教室
ボナールの絵画は知覚や記憶の問題系よりも、液化・気化・固体化などを経て変容する「異様なオブジェクト」の次元で見る必要があると問題を提起した。そして、「毎日の散歩」で遭遇する「新種の小さな花々の出現」に「宇宙の構成」を見出すマティス宛の手紙や、《庭の女性たち》(1890-91年)などに潜む不思議な異星的存在を示しつつ、予想を超えて変容する「メタモルファ」(レム『ソラリス』)を描く「印超派(Pata-impressionnisme)」と(ジャリをもじりながら)ボナールを命名した。また、後期ボナールを原子力開発の時代の画家と位置づけつつ、ボナール《花咲くアーモンドの木》(1946-47年)の白と青に、ヴァージニア・ウルフ『幕間』(1941年)に描かれた雲間に覗く宇宙の青を重ね、ボナールの手帖やマティス宛の手紙に綴られた「絶対の探求」を、バルザックが同題の小説で描いた絶対変容の探求と結びつけた。そして宇宙的なものと地球の生命圏・生活圏のせめぎ合いのなか、絵画は原子力とは異なるかたちで、「宇宙からの色」(H.P.ラヴクラフト)を地上に下ろす実験と論じた。
担当授業科目(学内) 【 表示 / 非表示 】
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2023年度 近現代芸術論
教養教育科目
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2023年度 英語演習1c
教養教育科目
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2023年度 Y-GSC ワークショップS
大学院都市イノベーション学府
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2023年度 卒業研究B
都市科学部
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2023年度 卒業研究A
都市科学部
担当経験のある授業科目(学外) 【 表示 / 非表示 】
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メディア概論
2008年4月 - 現在 機関名:東京藝術大学
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テクノロジー文化論
2013年4月 - 現在 機関名:武蔵大学
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芸術学C
2018年4月 - 現在 機関名:慶應義塾大学
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今、都市を考える
2022年10月 機関名:放送大学
この地球という惑星に誕生したサピエンスの歴史のなかで、都市とは果たして何だったのでしょう か。今、都市はどうなっているのでしょうか。そして都市の未来はどうなっていくのでしょうか。どうな る必要があるのでしょうか。都市は自由の場所でしょうか。孤独と病の源泉でしょうか。欲望と富の 集積地でしょうか。文化と文明の発信地でしょうか。攻撃や防衛の対象でしょうか。環境の最大の 破壊者でしょうか。都市はサピエンスだけのものでしょうか。こうした問いを立てながら、今、都市に ついて考えるべきことを探っていきたいと思います。
第1回 自分史のなかの都市を語る
第2回 今、都市をめぐり話し合う
第3回 「祝祭都市の政治」から展開する
第4回 「揺らぐ都市へ/から」「都市という謎にせまる」から展開する
第5回 「ユートピアかディストピアか」から展開する
第6回 「都市のスケールとリズムについて」から展開する
第7回 「イスラーム都市から考える」から展開する
第8回 「都市と世界を揺らす」から展開する
(教科書:『都市は揺れているー五つの対話』(吉原直樹・榑沼範久/都市空間研究会編、東信堂、2020年) -
<世界史>を改めて考える
2021年12月 機関名:放送大学
社会活動(公開講座等) 【 表示 / 非表示 】
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「Here, There, and (Not) Everywhere 今日は地衣日和? ―地衣類/都市を考える」
役割:パネリスト
横浜国立大学都市科学部 都市科学シンポジウム「都市から自然を、自然から都市を考える」 YouTubeライブ配信(一般)及び経済学部講義棟2号館111教室 2022年12月
種別:公開講座
森林にも、街中にも、南極にも、高山にも、海抜0メートル地帯にも、大学の構内にも、樹皮にも、岩肌にも、石材にも、金属の表面にも、ここにもあそこにも、けれどもどこにでもいるわけではなく、しかし都市も自然も関係なく、人知れず生きる地衣類たち(Lichens)。この藻類と菌類の共生体は、雨降る日や靄垂れこめる日には地衣日和とばかりに、柔らかさも色合いも変容させていく。じつに陸地表面の8%を占めると言わる地衣類は、人間中心のパースペクティヴからすれば染みのような「すみっこたち」でありながら、大陸を横断して分散する「World Wide Forests(汎世界森林)」の要素であり、大集合すればアメリカ合衆国や中華人民共和国の領土よりも広い「地衣国(Lichen Nation)」を構成する。19世紀後半、人類に「共生(Symbiose, Symbiosis)」の概念を教えた地衣類は、21世紀前半、人類に都市も自然も超える世界、「都市のあとに来るもの」のモデルを見せてくれるのではないか。
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「今夜もウェルネス!」第73回
役割:出演
インターネットラジオステーションOTTAVA 2021年5月
種別:テレビ・ラジオ番組
「1853年、シューマンの覚書を読んでみましょう。「10月15日 ディオティーマ 10月16日 ディオティーマ」。ディオティーマとはプラトンの対話篇である『饗宴』に登場する女性の名、そして精神を病みつつも創作を続け、1843年に亡くなった詩人ヘルダーリンの小説『ヒューペリオン』や詩篇に登場する女性の名です。シューマンの覚書を続けます。「10月17日 仕事に精進。精神的発作が襲うも、わが勝利 10月18日 「暁の歌」完成」。ここでシューマンはベートーヴェンと密かな、しかし強固な音楽の「同盟」を結んだのではないでしょうか。シューマンは、人生の、世界の、谷と谷の闇を生き抜くなかで、新しい音楽、新しい世界を作るための支えとなる密かな「同盟」を探し出してきたように思います。クラーラとの「同盟」。あるいは、同盟者たちが芸術を新しくしていくという想定のもとで書かれた1837年のピアノ曲「ダヴィッド同盟舞曲集」(作品6)。あるいは、ブラームスに1853年に出会って書いた評論「新しい道」など。「新しい道」には、こうあります。「どんな時代にも、近しい精神のひそかな同盟が存在する」、だから、それをしっかり結び合わせるのだと。」
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「今夜もウェルネス!」第72回
役割:出演
インターネットラジオステーションOTTAVA 2021年5月
種別:テレビ・ラジオ番組
今日は50代半ば、最晩年のベートーヴェンが、『交響曲第9番』のあとに集中して取り組んだ弦楽四重奏曲、そのなかでも亡くなる前の年(1826年)に完成させた2曲から選ぶことにしました。まずは弦楽四重奏曲、第14番(作品131)です。この曲は1828年に31歳で亡くなるシューベルトが聴きたいと願い、死の5日前にそれが叶えられた曲としても知られています。さらには、物理学者ロバート・オッペンハイマーが若い時から愛してやまず、1967年の告別式でジュリアード弦楽四重奏団が演奏した曲でもあります。
続いては弦楽四重奏曲第16番(作品135)です。 ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』では、軽さと重さ、どちらに価値があるのか?という問いがくりかえされるなか、このベートーヴェン最後の弦楽四重奏曲の最終楽章である第4楽章が登場していました。確かに、小説『存在の耐えられない軽さ』でクンデラが書くように、ベートーヴェンはこの笑いを誘うような状況を、「難しい決断」を表現する「重みのある」弦楽四重奏曲に変えたと言えるでしょう。けれども、実際に聴いてみると、この曲は、最後の最後に、必然性、運命の声と重さの結びつきを、軽やかにひっくり返してしまうのです。 -
「今夜もウェルネス!」第64回
役割:出演
インターネットラジオステーションOTTAVA 2021年3月
種別:テレビ・ラジオ番組
「ホルン、クラリネット、そしてオーボエ。なぜシューマン はこれら管楽器に特別の場所を与えたのでしょうか。改めて考えると、こうした管楽器は、天空や大地に由来する金属や木材から作られた管を、人間が両手でつかみ、そこに息を吹きこんでいく楽器です。真っ直ぐの、あるいは、ねじられた管に開けられた穴を、指や手で閉じたり開いたりしながら、です。そのなかでもオーボエは植物の葦を削ったリード、それを二つ重ね、髪の毛1本、2本の細さしかない隙間に、息を吹きこむそうです。そして、そのリードは演奏者が自ら手作りするとのこと。オーボエは人間の声にもっとも近い楽器とも言われるようですが、私が思うに、人間の発声や呼吸を非常に困難な状況に置く、そして人間の呼吸と発声を変容させる。そこから言葉のない歌を生み出す。オーボエは、そうした楽器なのではないでしょうか。」
「1849年にシューマンはピアノを伴侶とするチェロの作品「民謡風の5つの小品」Op.102を書いていますが、翌年、ドレスデンからデュッセルドルフに活動の場を移すと、そのひとつのチェロをオーケストラと隣り合わせ、あの比類のない音楽、「チェロ協奏曲」Op.129を仕上げます。ここでは「オーボエとピアノのための3つのロマンス」第1曲のはじまりを反復するような旋律が、オーボエとフルートに導かれて始まると、そこにひとりの人間の身体の大きさをもったチェロの響きが入ってきます。そしてオーケストラという楽器の集団、いわば楽器の社会と、チェロがときに対峙し、ときに協働し、チェロがときに間をぬって進み、音の身をよじらせ、さまよい、彼方に向けて音を響かせるのです。不確実に揺れ動く社会と世界のなかで、さまざまな人生の嵐や病(やまい)のなかでも、むきだしの心で、もちこたえながら、まだ聴こえない音楽を追究していく。それはロベルト・シューマンという人間の、深いウェルネスの営みに違いありません。」 -
「今夜もウェルネス!」第60回
役割:出演
インターネットラジオステーションOTTAVA 2021年2月
種別:テレビ・ラジオ番組
親密性の可能性:グスタフ・マーラー『交響曲第九番』
メディア報道 【 表示 / 非表示 】
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OTTAVA「今夜もウェルネス!」#72 出演
OTTAVA 今夜もウェルネス! 2021年5月
最晩年(50代半ば)のルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(1770-1827)が『交響曲第9番』(1824年)のあとに集中して取り組んだ弦楽四重奏曲、そのなかでも亡くなる前の年(1826年)に完成させた2曲を取り上げる。フランツ・シューベルト(1797-1828)、物理学者ロバート・オッペンハイマー(1904-1967)、そしてミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』(1984)も話に交差させながら聴く曲は、ベートーヴェン「弦楽四重奏曲 第14番」(作品131)、「弦楽四重奏曲 第16番」(作品135)から。
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OTTAVA「今夜もウェルネス!」#64 出演
OTTAVA 今夜もウェルネス! 2020年3月
不確実に揺れ動く社会と世界のなかで、さまざまな人生の嵐や病と向き合いながら、まだ聴こえない音楽を追究していくロベルト・シューマン(1810-1856)について語る。取り上げる曲は、オーボエとピアノのための「3つのロマンス」Op.94(1849)、ホルンのための「アダージョとアレグロ」Op.70(1849)、「チェロ協奏曲」Op.129(1850)など。
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OTTAVA「今夜もウェルネス!」#61 出演
OTTAVA 今夜もウェルネス! 2020年2月
グスタフ・マーラー作曲、交響曲第9番(1909)、第4楽章アダージョ(緩徐楽章)の聴きどころと、なぜマーラーの楽曲がいまだ私たちにリアルに響くのか、その歴史的・社会的な意味を中心に語る。
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OTTAVA「今夜もウェルネス!」#60 出演
OTTAVA 今夜もウェルネス! 2020年2月
グスタフ・マーラー作曲『大地の歌』(1908)の聴きどころと、科学と芸術を横断するその楽曲の文化史的位相を中心に語る。
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東京藝術大学 先端○展 公開講評会
東京藝術大学先端芸術表現科 東京藝術大学上野校地 絵画棟1階 アートスペース 2016年12月
東京藝術大学先端芸術表現科1年生の展覧会(先端◯展)の最終日に開催された公開の作品講評会・講評者。